映画『タリウム少女の毒殺日記』



ストーリー

監督インタビュー

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――まず、映画の題材となっている「タリウム母親毒殺未遂事件」についておうかがいします。この2005年に起きた事件は、娘が実の母親に劇薬のタリウムを飲ませて殺害しようとしたことから、センセーショナルに報道されました。監督自身はこの事件のどこに最も興味を持ったのでしょう?

A(土屋監督): この事件が明るみになったとき、少女の性格や母親との関係など、いろいろと報じられたわけですが、そんなメディアの報道よりも僕自身の心に留まったのは少女のブログでした。不謹慎かもしれないけど、彼女が綴った日記はとても魅力的で実に興味深かった。なぜそう思ったのかというと、ブログを読む限り、彼女は愛情のもつれや憎悪から母親を殺そうとしたようには到底思えない。アリの生態を観察することやハムスターの飼育と、母親への行為は同一線上にあって、あくまで母親も観察対象に過ぎない。文章からはそうとしか受け止められなかった。この彼女の思考回路は僕自身出会ったことがないもので、ある種の新しさを感じました。そして、そこに興味を抱いて、“この少女は一体何を考えているのか?”を追求してみたいと思いました。

――そうして作品を作り上げていく中で、タリウム少女の存在を、監督自身はどう紐解いたのでしょう?

A(土屋監督): この少女はある意味、今ある社会を知りすぎてしまった。自分の力ではどうにもならない現実があることも、不条理でも変わらない社会システムがあることも彼女はわかっている。だから、観察者となってそういったシステムを十分に自覚することで、コントロールから逃れる術を探している。そういう風に設定してみました。

――それにしても土屋監督の着眼点には毎回驚かされます。監督の手にかかると、まったく異質のものと思える事象が見事につながってしまう。例えば『新しい神様』だったら、右翼と左翼とまったく別世界と思われることを同じ卓上に並べて違和感なく語り尽くしている。今回も同様で、タリウム少女を介して、社会においての「システム」「人間」「プログラム」「生命」が様々な角度から鋭く語られていく。その中で、この一見結びつかない四つの事項に深い相互関係があることに気づかされる。ある意味、この四つのキーワードでこの世界は形作られているといっていいかもしれない。

A(土屋監督): この四つのキーワードが同一線上に浮かんだきっかけは、今の監視社会に対する興味と疑問から。僕は『PEEP“TV”SHOW』を撮っていたころから、監視システムのつくられ方にとても強い関心を持っていました。プライバシーの保護が叫ばれながら、街のいたるところに監視カメラが設置されていく。「安心・安全」を得るのと引き換えに、我々は勝手にあらゆる場所でチェックされることに同意してしまっている。この監視システムはここ数年でさらに加速しているように思う。このまま監視社会が進化するとどうなってしまうのかと考えていたある日、すでに指紋や目の虹彩で本人であることを認証するシステムが存在することにふと気づきました。実は、もう監視カメラどころか、個人の身体そのものがスキャンされるシステムが出来上がっている。もっと言えば、その人個人の設計図と言えるパーソナルゲノムを調べて、その人の未来を予測するサービスまで存在している。つまり、人間自体をプログラム、データとしてとらえて管理・監視する時代がきてもおかしくない。いや、むしろ、私たちは安心・安全な未来のために、そうなることを欲しているのではないか? そのように現状をとらえたとき、「システム」「人間」「プログラム」「生命」を新しい視点で切り取って、繋ぎ直してみる必要があるのではないかと思いました。

――そして、この四つのキーワードをもとに、作品は、生と死の境界線はどこにあるのか? 科学の進歩はどこまで許されるのか?モラルとはいったい? といった様々な問いを投げかけます。

A(土屋監督): 例えば、作品内で直接言及しているわけではないけれども、尊厳死の問題。あるいは、出生前診断の是非。生命がどこから始まってどこで終わるのかというテーマを現在の先端テクノロジーの可能性をふまえて、もっと踏み込んだ議論があってしかるべきだと思う。正解はないと思うけど。あと、遺伝子組み換え食品のこととか。もともと豚やニワトリといった家畜だって、野菜だって人間に都合のいいように改良されてきたもの。長い時間をかけて改良されたものは安全で、短い期間は危険だとなぜ言えるのか? 感情とか感覚ではなくて、客観的にいろいろじっくりと話し合うべきことがたくさんあるのに、きちんとした議論がなされていない。この作品を通して、これらのことについて本質的なところから観客の皆さんと一緒に考えていきたい気持ちがあります。

――そういった大きなテーマがあるゆえ、賛否あると思います。

A(土屋監督): それは僕の望むところ。そうでないと作品を発表する意味がないですから。この作品が、今の社会に対するひとつの問題提起になってくれたら、それほどうれしいことはないです。

――その姿勢を含め、土屋監督は毎回タブーな題材に果敢に挑んでいる印象があります。

A(土屋監督): 僕としてはタブー視されがちな題材だから挑むということはまったくない。ただ、自分の興味が気づくとそういった方面にいってしまう(笑)。今回も調べていったら、遺伝子工学の分野であったりとか、先端医療であったりとか、美容整形とか何かと物議を醸し出すことの多い事柄が絡んでくる。そこで波風立たないように逃げてもいいんでしょうけど、僕にはそれができなくて、自主規制とか全く考えずに作ってしまう。すると何かと批判的な意見が出てきてしまい……の連続ですね。僕としては自然体で構えずにやっているだけなんですけど(笑)。

――東京国際映画祭やロッテルダム国際映画祭など、映画祭を回っていますが、印象に残っている反応はありましたか?

A(土屋監督): 東京国際映画祭で、ちょうどタリウム少女と同年代くらいの女性がこんな感想を言ってくれました。「見ていて自分が映画の中の少女にどんどん共感していってしまった。悪いことをした人に共感してしまった自分を許していいのか、今複雑な心境です」と。これはとても印象に残っています。同年代の女の子だとタリウム少女の気持ちがわかるんだなと思って。僕自身は作り終えた今でもタリウム少女のほんとうの心の中は覗けていない気がしています。

――そのタリウム少女役を誰にするかは悩まれたのではないでしょうか? なかなか見つけるのが困難だったのではないかと想像します。

A(土屋監督): 予算に限りがありますから、その面での制約があったのは確か。でも、インディペンデント映画ですから、すべての選択権が自分にある。主役のヒロインに誰を選ぶかも自由。と言いつつ当初は誰も思い浮かびませんでした。エキセントリックな個性の持ち主とも違う。猟奇的な存在というわけでもない。変な言い方ですけど、いい意味で「空っぽ」な感じなんじゃないかとか。探しに探した結果、倉持(由香)さんにたどり着きました。調べてみると彼女自身がニコニコ動画の生中継をするなど、ネットに親和性が高い人で。ほかにゲーム好きだったり、漫画が好きだったりと、わりとオタクな香りがしたので、今回の主人公に近い感じがあるんじゃないかと思いました。それで実際にお会いしたら、瞬時に“これはいける”と。決め手となったのは彼女の目の力。この異形のヒロインには目だけで人をグッと惹きつけてしまう存在というイメージが当初からあったので。

――倉持さんに演じる上で、こうあってほしいということはあったのでしょうか?

A(土屋監督): さっきも言いましたけど、中身が空っぽといったら語弊があるかもしれないのですが、肉体はあるけど感情はない、いわば人形のような存在で、何を考えているかわからない。とらえどころがない。そういった存在でいてほしかった。でも、倉持さんには特別な指示をしたことはなく、自然とそうなってくれましたね。こちらの予想を超えるぐらいに。

―一方で、母親役には渡辺真起子さん、タリウム少女の担任教師役を古舘寛治さんと、実力派で知られる二人に託しました。お二人が作品で果たした役割も非常に大きかったと思います。

A(土屋監督): いや、おっしゃるとおりで、二人の存在は大きかった。先ほど触れたように主人公は人間離れしていますから、彼女だけの存在では一方通行で絵空事の話になってもおかしくない。きちんと現実味のある物語と受け止めてもらうためには、まさに正反対、人間そのものと思える人物の存在が不可欠でした。この二役はいうなれば観客と作品との橋渡し役。この二役の存在の在り様によっては、作品で語られることに観客がついていけなくなってもおかしくない。でも、さすが渡辺さんと古舘さん。きちんと役に命を吹き込んでくれた。この物語が破綻しなかったのは、ある意味、この二人のおかげといっても過言ではないと思います。

――過去を含め土屋監督の作品には常に社会と向き合う姿勢があるようにお見受けするのですが?

A(土屋監督): 僕自身が大切にしているのは常に物事を違う角度から見てみること。固定観念や杓子定規な見方で狭められてしまった世界観を広げたいというか。少し見方を変えるだけで、まったく違う世界が広がることがあることを僕自身も発見したいし、皆さんにも発見してほしい。それが自分が生きていく上での何かの気づきになってくれたらいい。その視点はいずれの作品にも反映されていると思います。 ――最後に次回作の構想はあるのでしょうか? 正直言うと、もう少し短いスパンで新作が届いてほしいと思うのですが(笑)。

A(土屋監督): 作家によってはやりたい企画がいくつもあって、“一作出来たら、すぐ次回作に”となるんでしょうけど、僕の場合は違って。それまで自分が蓄積してきた興味の対象や表現したいことのすべてを、ひとつの作品に詰めきってしまう。だから、作品が完成した直後はやりつくしているので、もう出がらし状態(笑)。次の作品へのプランどころか、ほんの小さなアイデアの種といったものさえ頭の中にはない。毎回そうです。ただ、確かに今後は、もう少しコンスタントに作品を発表できていければとは思っています。この作品も完成から一年近くが経ち、公開も迎えるので、そろそろ頭を切り替えて、次に向かおうかなと思っています。既にアイデアはありますよ。もう出がらし状態は脱したので(笑)。

インタビュー協力:水上賢治


土屋 豊

1966年生まれ。
1990年頃からビデオアート作品の制作を開始する。
同時期に、インディペンデント・メディアを使って社会変革を試みるメディア・アクティビズムに関わり始める。ビデオアクト・主宰/独立映画鍋・共同代表。

フィルモグラフィー

◆監督作品
『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?』(1997年/53分)
(山形国際ドキュメンタリー映画祭、台湾国際ドキュメンタリーフェスティバル等、正式出品)
『新しい神様』(1999年/99分)
(山形国際ドキュメンタリー映画祭にて国際批評家連盟賞特別賞受賞)(ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭、ウィーン国際映画祭、台北金馬映画祭、全州国際映画祭等、正式出品)
『PEEP "TV" SHOW』(2003年/98分)
(ロッテルダム国際映画祭にて国際批評家連盟賞受賞)(モントリオール国際ニューシネマ映画祭にて最優秀長編映画賞受賞)(ハワイ国際映画祭にてNETPAC特別賞受賞)(ミュンヘン映画祭、香港国際映画祭、ウィーン国際映画祭、オスロ国際映画祭、シカゴアンダーグラウンド映画祭、ブリスベン国際映画祭、バンコク国際映画祭、ローマ映画祭、全州国際映画祭等、正式出品多数)

◆プロデュース作品
『遭難フリーター』(監督:岩淵弘樹/2007年/67分)
(山形国際ドキュメンタリー映画祭、香港国際映画祭等、正式出品)