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『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』vol.3(上映作品:『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』、トーク出演:菊地成孔、土居伸彰)

詳細 DETAIL

洋邦や制作年を問わず、上映機会の少ない傑作映画を発掘し、広めることを目的とした上映シリーズ『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』。第三回となる今回は、1982年生まれのテレンス・ナンス(アメリカ)が監督・主演を務め、JAY-Zがエグゼクティブ・プロデューサーとして参加、Flying Lotusが音楽を手掛けた『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』を上映します。上映後には菊地成孔さんと土居伸彰さんのトークショーあり。

トーク出演

菊地成孔(音楽家/文筆家/音楽講師)
土居伸彰(アニメーション研究/ニューディアー代表)


上映作品

『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』(2012年/84分/英語/日本語字幕)

テキサス州・ダラスに生まれ、俳優、写真家、ミュージシャンの家族に囲まれて育ったテレンス・ナンス。これまでにNick HakimやCody ChesnuTTらと協働してミュージックビデオを制作しているほか、今年の8月20日にはテレンス・ナンスが全話の製作/脚本/監督を手掛け、出演も果たすHBOのドラマシリーズ『Random Acts of Flyness』のシーズン2制作決定がアナウンスされました。監督自身が主演を務める初長編作『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』は、アニメーション / 実写を織り交ぜて制作され、フィクション / ドキュメンタリーの境界も軽々と飛び越える意欲作です。2012年には『サンダンス映画祭』でプレミア上映されたのち、MoMA とリンカーン・センター映画協会による映画祭『New Directors/New Films』など、世界36の映画祭で上映されました。作品の「THANKS」クレジットには『ムーンライト』で知られるバリー・ジェンキンスも名を連ねています。


テレンス・ナンス監督のステートメント

『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』のオフィシャルリリースに掲載されていたテレンス・ナンス監督のステートメントを日本語訳で掲載します。監督と、共に主演を務めたナミク・ミンターについての物語です。

 当時好きだった女の子の友人の友人を通じて、ぼくはナミクに出会った。2005年、街に出てきて2か月が経っていた。はじめて会ったとき、ぼくたちが分かち合えるかもしれない未来が彼女の笑顔からぽろっと、ふたりのあいだのテーブルに落ちてきて、ぼくのほうへよちよちと、小さな子供がリモコンに近づくみたいにやってきた。素敵な驚きだった。そのときぼくはひとりぼっちで、のちにわかったことだが、彼女もある種の孤独を感じていた。ぼくはすごい速さで彼女に夢中になり、数週間後には、ぼくたちの息の香りにも足取りにも、ふたりの浸かった親密さがあらわれるようになっていた。

 あいにくすべてが理想的に進行したわけではなく、いくつかの罪のない嘘と取るに足らない秘密がぼくたちのあいだを漂ってはいた。だが苦痛もなければ溝もなかった、なぜなら信じてほしい、ナミク・ミンターの声音とあの左目の下のふたつのほくろ、そして絶えないつかみどころのなさは、いやおうなくぼくを引き寄せたからだ。嘘じゃない。だからこう言えば充分だろう、数ヶ月経つころには、ふたりのあいだの名付けがたいなにかは青春期に突入し、ぼくたちはその不滅を無条件に信仰しはじめたのだと。ある夜、ぼくの家で彼女と会うことになっていた。そういうこともときどきあった。ぼくは興奮して、大急ぎで帰った。だが仕度ができたころ、彼女から電話で、行くことができないと告げられた。

 その夜わかったのは、すくなくともぼくとの経験におけるナミクは雪のようなものだということだった。美しくてミステリアスだが、触れるには冷たすぎる。ひとことで言えばぼくは、彼女をあまり長く掴んでいると、別の形に溶けて指のあいだから逃れてしまうのだということを学びつつあった。ぼくたちのあいだに、光り輝く、太陽のような愛が育っていたことは疑わないでほしいが、肝心なのは、ぼくも彼女もその愛をあえて言葉にはしなかったということだ。だからこそ、ぼくに日々幸福を感じさせてくれた彼女の深い影響力と、自分が彼女に感じていたことをそのまま伝えたいという欲望に促されて、ぼくは『How Would You Feel?』という短篇映画を書いた――彼女がこれに応えてくれたらと願って。

 最後までひと息に書き上げたけれど、実際に胸の内ですべてを書いたのは彼女が電話を切ったあとの2、3秒間だった。それは、ぼくが愛したとしても彼女がそれに応えてくれる保証はないと痛感しはじめた瞬間だった。書いたあと、ぼくにはこれが偽りのない、自嘲的な真実だと思えた――また過度にユーモラスで、カタルシスに満ちたものでもある。実体験にもとづくこの作品は二人称のフィクションで語られ、コミュニケーションにはふたつの次元があった――ひとつはナミクとぼくのもの、そしてもうひとつは、観客とキャラクターたちのもの。

 『How Would You Feel?』は、ぼくが彼女の笑顔と出会った2005年9月のある日から、彼女がパーマの男とデートしはじめた2006年6月にいたるまでの物語の、核心を捉えていた。2006年7月6日、短篇映画『How Would You Feel?』の完全版が公開された。ナミクが演じていたのは彼女自身のストーリーだったが、彼女はその事実を上映まで知らされなかった。

 ナミクについて言えば、ぼくは間違いなく彼女に、ぼくたちの関係性の内実と向き合ってほしかった。ふたりのあいだの良かったことや悪かったことを告白させようとしていたのかもしれないし、映画を観た彼女があっという間にぼくに夢中になってこの胸に劇的に飛び込んでくれればとも思っていたかもしれない。彼女を騙して本人役を演じさせたのを正当化しようと、ぼくは自分に「真実に怒る者はいない」と言い聞かせていた。

 この映画でぼくは真実に――というよりぼくの真実に――こだわっていた。たとえそれが自分の好ましくない側面を明かすことを意味していてもだ。結局、これはもとよりぼくだけの真実であって彼女の真実ではなかったし、魅力的な一篇の作品を作り終えた達成感もあった。にもかかわらず、ぼくは最初の失敗に直面していた。予期していたほどつらくなくても、苦々しいものだった。大勢の友人たちと大きなスクリーンではじめて映画を見たあと、彼女はぼくの胸に飛び込まなかったし、ぼくに夢中になってもくれなかった。もの静かで、いつも通り平然としているように見えた。ぼくとのことをどう感じているか伝えてくれるほど歩み寄ってもくれなかった。距離は縮まらず、ついにぼくたちは一緒にどこへ向かうのもやめて、痛々しい、プラトニックな煉獄にとどまった。初上映の直後に、彼女は例のパーマの男と付き合うようになった。

 『How Would You Feel?』でナミクを勝ち取るという試みは失敗したと言わねばならない。でも、他方ではよりよい結果も得られた――スクリーン上のキャラクターと観客とのつながりだ。そのおかげで『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』へと歩みを進めることができた。

 『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』では、ぼくたちのストーリーをさらに展開させている。すべては確かに実際に起こったことだ……そう思いたい。たとえそっくりそのままでなくても、スクリーン上で奏でられる感情の響き一つひとつは現実に即しているはずだ。この映画はだから、『How Would You Feel?』のインスピレーションとなった愛と危険、そして曖昧さへの、全般的な読解になっている。手紙を再読し、夢を見なおし、そして残っている――と願った――思い出をあらためて分析する過程で生じた、ぼくたちの高揚と停滞の記録でもある。この映画はぼくの強迫観念だった。どうしてぼくが彼女を忘れられないばかりか、忘れたいという思いを育もうとさえしなかったのかを説明したかった。この映画を見ればあなたも彼女の存在をみとめるだろう、そして彼女に恋するだろう、ぼくがそうだったように。そしてぼくのように、彼女を理解しようという試みに、完全に失敗するだろう。

(翻訳:川野太郎)

企画:井戸沼紀美
1992年生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに手掛けたイベントに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)がある。

【関連イベント】
11月29日(木)には京都「誠光社」で『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』上映あり。