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連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」2nd 後半

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「映画が“映画のようなもの”にすり替わっているような気がする」という私のあいまいな違和感から始った、この連続講座。2ndシーズンでは、「変わってきているのは映画ではなく私たちの方かもしれない、だとしたら…?」という切り口で進めて参りました。
イメージがイメージを自己増殖するようなデジタル=ソーシャル環境で、見えるもの、聞こえるものの表現はどうなっている/いくのか。後半戦も多彩なゲストとともに、映画と私たちのリアルの変容について考えていきます。うう、大変…。 (七里)

第七回「彼女の声が響くのは、そこに彼女がいるからとは限らない」
~デュラスはサウンドトラックと映像をどのように考えていたか?~

小沼純一×吉田広明×七里圭
2015年1月28日(水)19:30開場/20:00開演

小説家であり、声(音)と姿(映像)の表現の極北を行く映画作家でもあったマルグリット・デュラス。目にしている空間(現在)と、語られている内容(過去)が混じり合い、今そのものでも過去そのものでもない時空間が開かれてゆく彼女の小説=映画的時空間を分析することで、サイバー環境が蔓延した今日的なリアルへの指標を探る。

小沼純一(音楽文化研究・批評家・詩人):1959年生まれ。早稲田大学文学学術院教授。坂本龍一総合監修による音楽全集「schola(スコラ)」シリーズの選曲・執筆にも携わる。近著は、『映画に耳を 聴覚からはじめる新しい映画の話』(DU BOOKS)。訳書にミシェル・シオン『映画の音楽』(みすず書房・共同監訳)、マルグリット・デュラス『廊下で座っているおとこ』(書肆山田)など。

吉田広明(映画批評):1964年生まれ。著書に『B級ノワール論』、『亡命者たちのハリウッド』(共に作品社)。雑誌「キネマ旬報」、WEBサイト「映画の國」、劇場パンフレット等のメディアに時折寄稿。さらなる書下ろし書籍を執筆中だがいつ終わるか分からない。

七里圭(映画監督):1967年生まれ。「のんきな姉さん」(2004)「ホッテントットエプロン-スケッチ」(2006)「眠り姫」(2007)「マリッジリング」(2007)、以上劇場公開長編映画。建築家・鈴木了二との短編「DUBHOUSE」(2012)が、2013年の25FPS国際映画祭でグランプリ。アクースモニウムなどの上映パフォーマンスにも取り組んでいる。

第八回「のぞき穴を見ている人に聞こえるリアルな音って、何?」
~リュミエールからエジソンへ揺れる映画史を再起動する~

大谷能生×荻野洋一×七里圭
2015年2月13日(金)19:30開場/20:00開演

声や音楽ではなく、物音はいつ映画に合流したのか? 縦長スクリーンがいまだに定着しない理由はあるのか? リュミエール/エジソンという映画の二つの傾きに立ち戻って、歴史の盲点を検証しつつ、20世紀に進展した視聴覚の分断/再統合の意味と現在の変容について考える。

大谷能生(批評家、音楽家):1972年生まれ。ジャズ(サックス)、エレクトロニクス、ラップ、朗読など、多数のバンドに参加し幅広い演奏活動を行っている。近年は舞台作品の音楽制作・出演も多数。著書に『東京大学のアルバート・アイラー』、『アフロディズニー』(菊地成孔との共著)、『貧しい音楽』、『持ってゆく歌、置いてゆく歌』など。

荻野洋一(映像演出、映画評論):1965年生まれ。横浜国立大学非常勤講師(映像論)、元『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』編集委員。ハンドルネーム「中洲居士」等で文化事象全般へ目配せするブログを続ける。雑誌『nobody』で短期集中連載「衆人皆酔、我独醒」がスタート。
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/

『映画としての音楽』[screening version]アンコール上映!

2015年1月28日(水)17:50開場/18:00上映
2015年2月13日(金)17:50開場/18:00上映

『映画としての音楽』[screening version](2014年/56分/HD)

まだ目覚めぬ映画を呼び起こす、声と響き。
監督:七里圭 
テキスト:日夏耿之介訳「院曲撒羅米」(オスカー・ワイルド作「サロメ」)
音楽:池田拓実、さとうじゅんこ、徳久ウィリアム、山崎阿弥、sei、山形育弘、古賀彰吾、今藤哲平、長宗我部陽子、飴屋法水 他

同時上映:『To the light 2.1』[international version](2014年/14分/HD)

監督:七里圭 
撮影:高橋哲也 
音楽:池田拓実 
人形:清水真理 
出演:古賀彰吾

主催:charm point
助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)