タリウム少女を怪物扱いしがちな僕たちだが、このクソ社会を生きる僕たちには、
本当は彼女の気持ちが痛いほど良く分かるはずなのだ。
なのに、何も分からない振りをしたいから、何も見ようとしない。
こうしてクソ社会が再生産され続けるから、タリウム少女も再生産されるのである。
僕たちの社会がどういうゲームなのかを、解き明かしてくれる、とても痛快な映画である。
─宮台真司(社会学者)
この違和感、この嫌悪感の中に「若者の真実」がある!
─香山リカ(精神科医)
かつて宇宙飛行士は、地球外から自分たちの惑星の「青さ」や「美しさ」を眺め、いわば宗教的な感動や陶酔へと導かれた。その時、人間は映像を介して自らの全体を観察する立場にはじめて到達したわけだが、それも少数の選ばれた存在にだけ許された特権にとどまり、いわば「神」の目の再来がそこに見出されうるだろう。他方、グーグルアースが日常手段と化した現在において、「神」の存在は立ち消え、その倒錯形態であるビッグブラザー(独裁者)の完璧な視線に隈なくさらされる類いの監視社会の「物語」も役立たずになる。「3.11」には直接言及されない本作だが、あの出来事が僕らに改めて知らしめたことの一つに、誰もがカメラを持ち、撮影し、撮影される主体/客体たりえる映像的環境の浸透が挙げられる。そんな時代にいかにして映画は存在しうるのか。土屋豊の現時点での最高傑作である本作は、そんな事態への果敢な対応の成果である。
─北小路隆志(映画評論家)
メタファーによる錬金術師であるこの土屋豊の恐ろしい才能は、映画を観て楽しんでいるだけの私たち自身が、毒殺実験の観察対象にされた母親のみならず、金魚やマウスの次に、観察記録のための実験対象にされてしまうだろうという錯覚を生み出す。つまり、『タリウム少女の毒殺日記』は、最終的には観る者が全員実験台にされるだろうという恐ろしさを秘めているのである。
─足立正生(映画監督)
総てを“他人事”としなければやっていけない少女の辛さ。でも突き放せない”私”。人とヒト、生命と生。傍観者、観察者に徹するとみせてそうすることの不可能さに物語を集約する手際に魅せられ、土屋監督のこれまでの映画を改めてきちんと追ってみたいと、強く思いました。。
─川口敦子(映画評論家)
こんな映画観たことない!
誰かに安易な言葉で説明もして欲しくない。この映画を知るには自分の目と頭で感受する以外ないと思う。
─中野量太(映画監督)
私たちが「安全圏」にいるために設けていた境界線が、音を立てて崩れていく。
土屋豊は、タリウム少女と同じ「危険人物」である。
─想田和弘(映画作家『選挙』、『選挙2』)
他人の生を実験することはできない。実験すべきは自分の生だけである。それは作者であっても等しいことを本作は表している。
─小谷忠典(映画監督)
タリウム少女は決して私たちと遠い存在ではない。ましてや怪物などではない。少なからず私たち世代の若者の中に、影をひそめている。
この映画において、タリウム少女自身が怖い訳ではない。タリウム少女のあの熱のこもらない目を通して、タリウム少女と同じ視点で世界を観察してしまいそうになる自分に気付いてしまったとき、思わず身震いせずにはいられないのだ。
─三浦みなみ(早稲田大学文化構想学部生)
あらかじめプログラムされた色で日々デジタルカメラに収められていく、あらかじめプログラムされたDNAを持つ生物たち、私たち。全てを改変・複製・削除可能な"モノ"として観察する彼女の、眼差しに宿る虚無感に共感しました。
─會川えりか(早稲田大学文学部生)
まずは物語的に、必死に非人間であろうとする少女の姿に痛々しさを覚えました。
実際のタリウム少女は先天的に感情の起伏が平坦だったのかもしれないけれど、
この映画の中の少女はなんとなく気持ちを圧し殺しているように見えました。
傍観者になろうと思考を巡らせている彼女の一部始終は、皮肉にもスクリーンにでかでかと映し出され、わたしたちにガッツリ傍観されてしまっている。
それがなんだか可笑しいなぁと思いました。
映像的には、どれも初めて見るモノや人ばかりで刺激的でした。自分では絶対足を踏み入れることがないような場所へ連れて来てもらったような気がしました。
興奮したのか、ショックを受けたのか分かりませんが、中盤あたりで鼻血がひとりでに出てきました。ビックリしました。
でも鼻血をティッシュで拭いながら観ている自分はこの映画の観客としてすごく似つかわしいんじゃないかなと、客観的に自分を捉えてそう思いました(笑)
色んな意味で楽しませていただき感謝です!
─橋本まみ(早稲田大学文化構想学部生)
『タリウム少女の毒殺日記』絶賛コメントの嵐!!
タリウム少女を怪物扱いしがちな僕たちだが、このクソ社会を生きる僕たちには、 本当は彼女の気持ちが痛いほど良く分かるはずなのだ。
なのに、何も分からない振りをしたいから、何も見ようとしない。
こうしてクソ社会が再生産され続けるから、タリウム少女も再生産されるのである。
僕たちの社会がどういうゲームなのかを、解き明かしてくれる、とても痛快な映画である。
─宮台真司(社会学者)
この違和感、この嫌悪感の中に「若者の真実」がある!
─香山リカ(精神科医)
かつて宇宙飛行士は、地球外から自分たちの惑星の「青さ」や「美しさ」を眺め、いわば宗教的な感動や陶酔へと導かれた。その時、人間は映像を介して自らの全体を観察する立場にはじめて到達したわけだが、それも少数の選ばれた存在にだけ許された特権にとどまり、いわば「神」の目の再来がそこに見出されうるだろう。他方、グーグルアースが日常手段と化した現在において、「神」の存在は立ち消え、その倒錯形態であるビッグブラザー(独裁者)の完璧な視線に隈なくさらされる類いの監視社会の「物語」も役立たずになる。「3.11」には直接言及されない本作だが、あの出来事が僕らに改めて知らしめたことの一つに、誰もがカメラを持ち、撮影し、撮影される主体/客体たりえる映像的環境の浸透が挙げられる。そんな時代にいかにして映画は存在しうるのか。土屋豊の現時点での最高傑作である本作は、そんな事態への果敢な対応の成果である。
─北小路隆志(映画評論家)
メタファーによる錬金術師であるこの土屋豊の恐ろしい才能は、映画を観て楽しんでいるだけの私たち自身が、毒殺実験の観察対象にされた母親のみならず、金魚やマウスの次に、観察記録のための実験対象にされてしまうだろうという錯覚を生み出す。つまり、『タリウム少女の毒殺日記』は、最終的には観る者が全員実験台にされるだろうという恐ろしさを秘めているのである。
─足立正生(映画監督)
総てを“他人事”としなければやっていけない少女の辛さ。でも突き放せない”私”。人とヒト、生命と生。傍観者、観察者に徹するとみせてそうすることの不可能さに物語を集約する手際に魅せられ、土屋監督のこれまでの映画を改めてきちんと追ってみたいと、強く思いました。。
─川口敦子(映画評論家)
こんな映画観たことない!
誰かに安易な言葉で説明もして欲しくない。この映画を知るには自分の目と頭で感受する以外ないと思う。
─中野量太(映画監督)
私たちが「安全圏」にいるために設けていた境界線が、音を立てて崩れていく。
土屋豊は、タリウム少女と同じ「危険人物」である。
─想田和弘(映画作家『選挙』、『選挙2』)
他人の生を実験することはできない。実験すべきは自分の生だけである。それは作者であっても等しいことを本作は表している。
─小谷忠典(映画監督)
タリウム少女は決して私たちと遠い存在ではない。ましてや怪物などではない。少なからず私たち世代の若者の中に、影をひそめている。
この映画において、タリウム少女自身が怖い訳ではない。タリウム少女のあの熱のこもらない目を通して、タリウム少女と同じ視点で世界を観察してしまいそうになる自分に気付いてしまったとき、思わず身震いせずにはいられないのだ。
─三浦みなみ(早稲田大学文化構想学部生)
あらかじめプログラムされた色で日々デジタルカメラに収められていく、あらかじめプログラムされたDNAを持つ生物たち、私たち。全てを改変・複製・削除可能な"モノ"として観察する彼女の、眼差しに宿る虚無感に共感しました。
─會川えりか(早稲田大学文学部生)
まずは物語的に、必死に非人間であろうとする少女の姿に痛々しさを覚えました。
実際のタリウム少女は先天的に感情の起伏が平坦だったのかもしれないけれど、
この映画の中の少女はなんとなく気持ちを圧し殺しているように見えました。
傍観者になろうと思考を巡らせている彼女の一部始終は、皮肉にもスクリーンにでかでかと映し出され、わたしたちにガッツリ傍観されてしまっている。
それがなんだか可笑しいなぁと思いました。
映像的には、どれも初めて見るモノや人ばかりで刺激的でした。自分では絶対足を踏み入れることがないような場所へ連れて来てもらったような気がしました。
興奮したのか、ショックを受けたのか分かりませんが、中盤あたりで鼻血がひとりでに出てきました。ビックリしました。
でも鼻血をティッシュで拭いながら観ている自分はこの映画の観客としてすごく似つかわしいんじゃないかなと、客観的に自分を捉えてそう思いました(笑)
色んな意味で楽しませていただき感謝です!
─橋本まみ(早稲田大学文化構想学部生)